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第2次世界大戦末期の1945年8月6日午前8時15分、人類史上初めて広島市の上空に原子爆弾が投下されました。続いて3日後、2発目の原爆により長崎が焼け野原となりました。このアーカイブサイトでは、そのうち広島で8月6日当日から同年12月末までの間に撮影された写真1532点と動画2点からなる資料群「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」の大部分を掲載しています。撮影者は、被災した市民や新聞・通信社のカメラマン、学術調査に同行したカメラマンです。
「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」は2023年11月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」登録候補として、広島市、中国新聞社、朝日新聞社、毎日新聞社、中国放送、日本放送協会の6者が共同申請し、日本政府の推薦案件となりました。6者は報道機関と地元自治体で、いずれも申請資料を所有、あるいは保存と活用に大きな役割を果たしてきました。なおこのウェブサイトは、旧同盟通信社を継承する共同通信社を加えた計7者が共同で構築しています。
広島原爆の犠牲者は、1945年12月末までに14万人(誤差±1万人)に上ったと推計されています。研究機関による被爆者の追跡調査によると、原爆放射線による急性障害が概ね収束するまでの「高率の死亡」が生じた時期です。この資料群は、廃虚と化した街、大やけどを負った被爆者、放射線の人体への影響をはじめ、核兵器使用の多岐にわたる影響を記録しており、広島平和記念資料館の展示に数多く活用されています。
なお、資料群の構成は1945年末までの撮影分に限っていますが、それ以降も原爆被害は続いています。「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」は、1946年以降から現在まで続く被爆者の健康被害、復興への長い道のりについて、その「始まり」を伝える記録物だと言えます。
戦後、世界で2千回以上の核実験が行われてきました。いまなお9カ国が退役・解体待ちの弾頭を含めると1万発をはるかに超える数の核兵器を保有していると推定されています。写真と動画が伝える事実は決して過去の事ではありません。原爆投下で引き起こされた惨状を知り、決して繰り返さないという人類共通の課題に取り組む上で、これらの写真と動画は、世界から喪失させてはならない遺産です。
このアーカイブサイトで閲覧できる写真と動画は、被爆後の状況をその場で、その瞬間に、被害者やその近くにいた人たちの視点で記録された決定的な一次資料です。当時の日本の生活水準とカメラ普及の度合い、原爆が投下された直後とその後の未曽有の混乱を考えると、撮影されていたこと自体に揺るぎない価値があります。
米軍も原爆を投下した当日は上空で「きのこ雲」を撮影していますが、初期の撮影は航空写真のみでした。米軍調査団などが次々と広島入りして大量の写真を撮影したのは、日本が第2次世界大戦の敗戦国となり、1945年9月2日に降伏文書を連合国と交わして以降のことです。原爆の爆発力と軍事的効果の把握に主眼を置き、建物などの破壊状況を多く記録しました。対してこのアーカイブサイトの資料は、9月2日以前の撮影分が多数含まれます。焼け出された被災者の姿や、臨時救護所の惨状を数多く伝えていることが大きな特徴です。
もう一つ特筆すべきは、これらの写真と動画は、撮影者たちが強い意志でもって日米双方の当局による圧力をかわし、散逸の危機をくぐりぬけて現存しているということです。
戦争中に旧日本軍の陸軍船舶司令部写真班員だった川原四儀氏は、「終戦とともに占領軍が進駐することになり、司令部の命令で、多くの機密書類にまじって、被爆者の写真も焼却処分にふされた」「しかし、焼却した数百枚のうちから、二十五枚だけ、私はひそかに残しておいた」と明かしています。カメラマン林重男氏らも、連合国軍総司令部(GHQ)が原爆報道を厳しく制限する中、写真が接収される危機においても自身の手元に守った経緯を記しています。朝日新聞の宮武甫氏は「進駐軍から『原爆関係の写真は提出せよ』と命令があった」「(上司から)フィルムは一切焼却してくれと申し渡されたが、自宅の縁の下に隠しておいた」と書き残しています。
「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」は以下の8資料群で構成されます。
広島原爆被災撮影者の会関連/中国新聞社関連/朝日新聞社関連/毎日新聞社関連/同盟通信社関連/林重男氏/菊池俊吉氏/日本映画社関連
また、写真については以下の3要素からも分類しています。
なお、「撮影日」の3時期はそれぞれ以下のような特徴を有します。
原爆のさく裂時に広島市や近郊におり、自らも被災した人たちが、未曽有の混乱の中で炎上する街や傷ついた市民の姿を地上から撮影した数少ない記録です。
爆心地から約2.7キロ離れた広島陸軍兵器補給廠に動員されていた深田敏夫氏は、原爆のさく裂から約20分後、立ち昇る雲を4枚連続で撮影しました[TFUKADA0001~0004]。最も至近距離で撮られたきのこ雲です。山田精三氏は爆心地から約6.5キロの山中できのこ雲[SYAMADA0001]を撮影しています。さく裂から約2分後とみられ、地上から最も早く捉えたきのこ雲となりました。ほかに、木村権一氏たち4人もきのこ雲を撮影しました[GKIMURA0001~0003、MMATSUSHIGE0001~0002、MOKI0001、TKARASUDA0001]。
木村氏は爆心地から約4キロの部隊の建物から、熱線や市内の火気で引き起こされた大火災によって炎上する市街地方面を3枚の組み写真でも収めています[GKIMURA0007]。
松重美人氏は、熱線で髪や皮膚が焼けただれた多くの負傷者が避難していた御幸橋西詰め(爆心地から約2.2キロ)で2枚[YMATSUSHIGE0001、0002]を撮りました。傷を負った女学生やうずくまる男女、乳児を抱えた母親たちが写っています。
街の壊滅によって大混乱に陥った6日当日の写真は極めて少ない一方、翌日以降は、軍の調査の関係者や県外から入った新聞・通信社の記者、カメラマンが広島市内の状況を撮影。爆心地近くの壊滅した街、大やけどを負った市民、治療や救命が困難な状況下の救護活動などを写しています。原爆放射線が直後に引き起こした症状も収められました。米国の戦略爆撃調査団などが広島入りして多くの写真を撮る前の時期であり、希少性と記録性は極めて高いといえます。
繁華街の本通り商店街で写真館を経営していた岸田貢宜氏は8月7日、店があった付近(爆心地から450メートル東)に入り、商店街が廃虚と化した光景を撮影しました[MKISHIDA0002~0004]。壊滅した市中心部を最も早く撮影した写真です。尾糠政美氏は被爆の翌日、8月7日に熱線による大やけどで皮膚が黒焦げた負傷者の姿を捉えています[MONUKA0001~0004]。宮武甫氏は8月10日から11日にかけて、広島赤十字病院などで顔に大やけどを負った女性[HMIYATAKE0060]や、やけどの手当てを受ける少年[HMIYATAKE0067]といった多くの被災者の姿を撮影しています。焼け跡に並べられた遺体を火葬しようとする写真[HMIYATAKE0076]は、犠牲者がいかに多かったかを物語っています。川原四儀氏は8月9日、負傷者であふれる臨時救護所を記録しました[YKAWAHARA0001]。
木村権一氏の8月末から9月初頭にかけての写真[GKIMURA0011~0017]は皮下出血の斑点や脱毛といった放射線の急性障害の症状を、調査した医学者の依頼で撮影しました。当時の調査記録によれば、写された人の中には撮影直後に亡くなった人も複数います。
市民の住まいをはじめ地域社会が根底から破壊されたため、広島の再建は困難に直面し、原爆放射線が初期に引き起こす障害が市民を苦しめていました。この時期、市民や新聞・通信社のカメラマンのほか、日本の学術調査団に同行した東京のカメラマンが多くの写真を残しました。
地域社会が根底から破壊された実態を象徴する写真が林重男氏の[SHAYASHI0235]です。爆心地を含む広大な焼け跡を360度の視界で写しました。「原爆ドーム」として知られる広島県産業奨励館や、繁華街だった中島地区(現在の平和記念公園)の廃虚、多数の児童が犠牲になった学校の校舎が含まれます。救護所で床に伏す母と娘を菊池俊吉氏が撮影した[SKIKUCHI0288~0295]は原爆放射線の市民への影響を伝えています。母親は被爆した後に皮下出血の斑点が現れ、歯茎から出血。娘は、けがを負い、髪が抜け落ちていました。母親は撮影直後の10月14日、娘は11月3日に亡くなりました。
菊池氏の[SKIKUCHI0167~0171]は皮下出血や脱毛の症状が出た20歳代の男性を捉えています。被爆から39年後に肺、のど、副腎にがんが見つかり、翌年に60歳で亡くなりました。原爆放射線は後にがんを発症するリスク増加を引き起こすことが分かっており、本資料はその影響のうちごく初期の様子を記録しています。
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