HOME > 広島の原爆被害
米軍が広島市に投下した原爆は市街地のほぼ中心の上空600メートルでさく裂し、被害が同心円状に全市に広がった。
原爆のさく裂の瞬間、爆発点は数十万気圧という超高圧となり、周りの空気が急激に膨脹して空気の壁といえるような衝撃波が発生した。爆心地から半径2キロ以内の地域では、木造家屋はほとんど倒壊。倒壊した建物の下敷きとなって圧死する人が相次いだ。
さく裂後に発生した火球の表面温度は約0.2秒後にはセ氏7700度となり、爆心地周辺の地表面の温度はセ氏3000度から4000度にも達した。爆心地から約1.2キロ以内で熱線の直射を受けた人は体の内部組織にまで大きな損傷を受け、そのほとんどが即死または数日のうちに亡くなった。
原爆の熱線により市内中心部の家屋が発火し、続いて市内の至るところで使われていた火気などを原因として大火災が発生した。爆心地から半径2キロ以内の地域はことごとく焼失。市内の約7万6000戸の建物のうち約92パーセントが半壊・半焼以上の被害を受けた。
原爆から放出された大量の放射線は細胞を破壊し、特に血液などを造る骨髄やリンパ節など細胞が活発に分裂している組織に大きな影響を及ぼした。外傷のない人々や被爆直後に広島市内に入った人でも高熱や下痢が続き、髪の毛が抜け、皮膚に紫色の斑点(皮下出血)が現れ、死に至る場合があった。1945年12月末にかけて続いたこれらの症状は、急性障害と呼ばれている。
さらに被爆から年月が経過した後、放射線に起因する後障害が引き起こされた。代表的な白血病は被爆2~3年後に増加し始め、7~8年後にピークに達した。その他のがんも、被爆5~10年後ごろに増加が始まったと考えられている。
被爆当時、広島には約35万の人がいたといわれている。住民のほか、軍人や周辺町村から空襲に備えて家屋を強制的に取り壊し、防火帯の空き地を作る建物疎開作業に動員されていた人々などがいた。
また、朝鮮半島から来た多くの人々をはじめ台湾や中国大陸から来た人々などが暮らしていた。その中には徴兵や徴用された人たちも含まれていた。日系米国人、東南アジアや中国からの留学生、ドイツ人神父、ロシア人家族、捕虜となった米軍兵士などもいた。
広島市は1976年、国連に対して「1945年12月末までに14万人(誤差±1万人)が亡くなった」とする推計値を報告している。ただ、身元の分からない遺体や川に流された遺体なども多く、調査を行う行政機関も破壊されたため、死者一人一人を確認することは困難な状況であった。被害の甚大さゆえに、原爆で亡くなった人の数は現在も正確につかめていない。
(広島平和記念資料館編「広島平和記念資料館総合図録―ヒロシマをつなぐ―」(2020年)による)
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