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広島原爆被災撮影者の会関連

松重三男

(まつしげ・みつお 1911~89年)広島県職員でレントゲン技師。1945年8月6日は広島県古市町(現広島市安佐南区)の自宅にいた。爆心地から北に約7キロの自宅近くの神田橋に避難し、きのこ雲を2枚撮影。煙に覆われる広島市中心部方面も収めた。被災者を乗せて可部町(現安佐北区)方面に向かうトラックも、自宅2階から撮った。戦後、広島県の保健関係の仕事を続けた。78歳で死去。

木村権一

(きむら・ごんいち 1905~73年)中国新聞写真部をへて、広島市宇品町(現南区)の陸軍船舶練習部写真班員。練習部構内で被爆後、きのこ雲や煙に包まれる市中心部の遠景を撮影した。45年8月末から9月初め、東京帝国大の都築正男教授の医学調査で、皮下出血の斑点や脱毛といった原爆放射線の急性障害に襲われた被爆者も写した。原爆で妻を亡くした。戦後は市内で土産物店を営むなどした。67歳で死去。

深田敏夫

(ふかだ・としお 1928~2009年)広島市内の5年制の旧制崇徳中を4年で繰り上げ卒業後、在学中から引き続き陸軍兵器補給廠(現南区)に動員されていた。爆心地から約2.7キロ南東の構内からさく裂後20分前後のきのこ雲を4枚連続撮影。ズボンの後ろポケットに入れていた小型カメラを使った。現存する広島原爆のきのこ雲の写真で最も至近距離。戦後は市内でカメラ店を営んだ。80歳で死去。

尾木正己

(おき・まさみ 1914~2007年)呉市の呉海軍工廠に勤めていた。原爆のさく裂から約40分後、爆心地から約20キロ離れた同工廠からきのこ雲を撮影。翌8月7日、呉の海軍の救援隊に加わって広島市内に入った。その後も市内に入り、爆心地近くで大破した広島県産業奨励館(現原爆ドーム)などを撮影した。戦後は海田町役場に勤め、助役や収入役などを務めた。93歳で死去。

鴉田藤太郎

(からすだ・とうたろう 1917~78年)広島県西条町(現東広島市)の陸軍傷痍軍人広島療養所の事務官。爆心地から北東約25キロの療養所からきのこ雲を撮影。6日午後、広島市内に救援に向かい、負傷者が逃げ込んでいた広島東署で、療養所の医師が治療するそばで収容者の名前や負傷の程度をカルテ代わりに記録。戦後、旧厚生省中国地方医務局の経理課長などを務めた。60歳で死去。

尾糠政美

(おぬか・まさみ 1921~2011年)広島市宇品町(現南区)の陸軍船舶司令部写真班員。被爆翌日の8月7日、けが人が運ばれていた沖合の似島で、軍医の指示を受けて焼けただれた兵士や女性を写した。以降も市内の臨時救護所などを回り撮影。市内に住む母を捜したが、遺骨すら見つからなかった。戦後は、郷里の島根県川本町に戻って写真館を営んだ。89歳で死去。

岸田貢宜

(きしだ・みつぎ 1916~88年)広島市中心部の本通り商店街で写真館を創業。その後、旧広島城にあった中国軍管区司令部の報道班員。出張中に広島県北の吉田町(現安芸高田市)できのこ雲を見た後、広島市内に入った。翌日、爆心地から約450メートルの写真館の跡辺りから廃虚を撮影。壊滅した市中心街をいち早く撮った。戦後は再び本通り商店街で写真館を営んだ。72歳で死去。

川本俊雄

(かわもと・としお 1901~68年)広島市内で写真館を経営する傍ら、広島県警察部の写真班員の委嘱を受けていた。警察の仕事のため原爆投下の前日から広島県西条町(現東広島市)に出張しており、8月6日午後に車を乗り継いで広島市内に戻った。翌7日以降、警察の要請で市内一円を回り、建造物の破壊状況や交通機関の被害を撮影。戦後は写真館を経営。66歳で死去。

川原四儀

(かわはら・よつぎ 1922~72年)現在の広島県呉市出身。陸軍船舶司令部の写真班員を務め、爆心地から南東約4.6キロの同司令部で被爆。大本営調査団に同行し、市中心部の惨状や負傷者であふれる臨時救護所を撮影した。ネガは終戦時に軍の命令で処分されたが、一部の写真のプリントを自らの手元に守り、手製の写真集にして保存した。戦後は広島市内で写真館を営んだ。49歳で死去。

北勲

(きた・いさお 1911~2001年)広島管区気象台(現広島地方気象台)の技術主任だった。爆心地から約3.7キロの江波山(現広島市中区)山頂の気象台で被爆。45年8月末から9月下旬にかけて、欄干が落ちた爆心地近くの相生橋などを撮影。文部省の原子爆弾災害調査研究特別委員会の気象部門の調査で「黒い雨」の降雨状況も記録。戦後、広島の気象台や西日本各地の測候所に勤めた。89歳で死去。

岸本吉太

(きしもと・よした 1901~89年)広島市田中町(現中区)で写真館を経営。牛田町(現東区)の自宅で被爆し、8歳だった長女を原爆で失った。被爆直後はカメラを手にする気になれなかったが、45年秋から中国配電(現中国電力)の依頼を受け、市内一円で発電所や電柱など配電設備の被害状況をつぶさに記録した。戦後も市内で写真館を営み、復興期の街の変遷を撮り続けた。87歳で死去。

森本太一

(もりもと・たいち 1916~78年)東京のオリエンタル写真学校を卒業後、広島市内に写真店を開いていた。戦時中は召集を受けて山口県内の部隊に配属。終戦2日後の1945年8月17日から愛用のライカを携えて広島市内に入った。幟町(現中区)の自宅は跡形もなく、宇品町(現南区)の倉庫に寝泊まりしながら知人の消息を求めて歩き、撮影した。61歳で死去。

林寿磨

(はやし・かずま ~1979年)広島市内の百貨店の福屋に勤務。福屋から出向した南観音町(現西区)の配給会社の寮で被爆した。1945年秋、家族が疎開していた志和堀村(現東広島市)から広島市内に通い、鉄筋ビルの福屋や中国新聞社が焼け残った八丁堀地区を収めた。旧制広島一中(現在の国泰寺高)在学中は今の全国高校野球選手権大会の第1回大会(1915年)に出場。84歳で死去。

陸軍船舶司令部写真班

陸軍船舶司令部は爆心地から南東に約4.6キロの広島市宇品町(現南区)にあった。司令部の写真班には、本資料の写真の撮影者に含まれている尾糠政美氏や川原四儀氏が所属していた。記録から班員による撮影と分かっているものの、どの班員の撮影かまでは特定されていない写真を陸軍船舶司令部写真班撮影と位置づけている。

中国新聞社関連

山田精三

(やまだ・せいそう 1928年~)1943年、国民学校卒業とともに中国新聞社の文化局給仕。夜間中学に通いながら働いていた当時、広島市の北東約6.5キロ、府中町の水分峡(みくまりきょう)へ友人と散策中に原爆さく裂の約2分後を撮影した。最も早く撮影された広島原爆のきのこ雲とされる。戦後はプロ野球担当記者、岡山支局長、編集委員などを歴任。府中町在住。

松重美人

(まつしげ・よしと 1913年~2005年)広島県呉市出身。中国新聞社写真部員で、中国軍管区司令部報道班員でもあった。爆心地から約2.8キロの自宅で被爆。その日のうちに爆心地から約2.2キロ南東の御幸橋西詰めに逃げてきた被爆者の姿をはじめ広島市内の惨状を5枚撮影した。広島原爆写真の中でも、8月6日当日に市内で被災者の姿を捉えた唯一の資料。戦後も同社に勤めた後、「広島原爆被災撮影者の会」(1978年結成)の代表に就いて原爆記録写真の保存に尽力。晩年まで被爆体験証言を続けた。92歳で死去。

山本儀江、谷川長次

(やまもと・よしえ 1911~98年)現在の原爆慰霊碑近くの材木町33番地で理髪店の傍ら写真現像・焼き付けを営んだ後、1943年中国新聞社入社。召集され西観音町(西区)で被爆。45年9月1日に復員後、大手町(中区)に残った煙突をシルエット撮影。上流川町の旧本社屋上から見た南方向の廃虚を谷川長次氏と共同して2枚組み写真で収めた。戦後は編集局調査部長などを歴任。86歳で死去。

(たにがわ・ながじ 1924~2002年)1938年中国新聞社入社。上流川町の旧本社屋上から見た南方向の廃虚を山本儀江氏と共同して2枚組み写真で収めた。戦後は写真部長、編集委員などを歴任。78歳で死去。

朝日新聞社関連

宮武甫

(みやたけ・はじめ 1914~85年)撮影当時、朝日新聞大阪本社写真部員。原爆投下後、中部軍管区司令部(大阪市)の宣伝工作隊カメラマンとして、1945年8月9日から12日まで広島に入り、原爆投下直後の惨状を撮影した。終戦後、撮影したネガフィルムをGHQに提出するよう求められるなどしたが、自宅の縁の下に隠して守り続けた。71歳で死去。

松本栄一

(まつもと・えいいち 1915~2004年)撮影当時、朝日新聞東京本社出版局カメラマン。長崎で22日間撮影し、1945年9月18日から8日間広島に入った。被爆まもない広島と長崎の両市を撮影した数少ない報道カメラマン。終戦後、撮影したネガフィルムは会社のロッカーに隠して守り続けた。89歳で死去。

毎日新聞社関連

国平幸男

(くにひら・ゆきお 1916~2009年)撮影当時は毎日新聞大阪本社写真部員。原爆投下から3日後の1945年8月9日午前、大阪から派遣された取材班の一員として広島市に入り、市街地の惨状を撮影。広島平和記念資料館の本館入り口に展示されている「顔一面に負傷した少女」などをカメラに収めた。戦後は大阪本社写真部長などを歴任。92歳で死去。

渡辺喜四郎

(わたなべ・きしろう 1902~52年)撮影当時は毎日新聞山口支局長。原爆投下直後、山口支局から広島市に入った記者の一人で、爆心地に近い水主町(現中区)の広島県庁付近など壊滅した市街地を撮影した。49歳で死去。

山上圓太郎

(やまがみ・えんたろう)1907年生まれ。撮影当時は毎日新聞大阪本社写真部員。原爆投下から1カ月後の1945年9月上旬、市街地の惨状や米国が派遣したマンハッタン管区調査団の活動などを撮影した。日中戦争下の中国・北京、日本統治下の台湾などでも撮影し、戦後は大阪や神戸の空襲跡を航空撮影した。

新見達郎

(にいみ・たつろう 1914~48年)撮影当時は毎日新聞大阪本社写真部員。原爆投下から1カ月後の1945年9月上旬に広島市に入り、市街地の惨状や米国が派遣したマンハッタン管区調査団の活動などを撮影した。34歳で死去。

同盟通信社関連

佐伯敬

(さえき・たかし 1915~97年)東京都出身。1945年3月から同盟通信社大阪支社の写真部員となり、8月9日から17日ごろまで広島市内を撮影。煙突1本を残し焦土と化した市街の写真は19日付の朝日新聞、毎日新聞などに掲載され、被爆の惨状を初めて全国に伝えた1枚とされる。戦後は1948年に読売新聞社へ移り、大阪本社写真部などで勤務。82歳で死去。

中田左都男

(なかた・さつお 1920~94年)大阪市出身。1943年に同盟通信社に入社し、大阪支社編集部に配属。1945年8月10日、大阪帝大(現大阪大)の浅田常三郎教授らの調査団に同行して広島市に入り、11日まで爆風で脱線した山陽本線の貨車や西練兵場の被爆遺体などを撮影。焼けたトラックの写真は20日付読売報知新聞などに掲載された。戦後は後身の共同通信社に一時在籍。74歳で死去。

林重男氏

(はやし・しげお 1918~2002年)東京生まれ。東京写真専門学校を卒業後、対外宣伝グラフ誌を発行していた東方社(東京)に1943年入社。45年10月、文部省が学術研究会議(後に日本学術会議にへ改組)に編成した原子爆弾災害調査研究特別委員会の物理班に同行して広島市内を撮影し、爆心地と周辺の廃虚を360度のパノラマで収めた。長崎にも入り、原爆被害を写真に収めた。戦後も東京で写真家として活動。原爆写真の展示や保存を目的とする写真家グループ「反核・写真運動」の運営委員長も務めた。84歳で死去。

菊池俊吉氏

(きくち・しゅんきち 1916~90年)岩手県花巻市生まれ。東京のオリエンタル写真学校などを経て東方社(東京)に入り、対外宣伝グラフ誌の写真撮影に携わった。45年10月、文部省が学術研究会議に編成した原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学班に同行し、広島市内の病院や救護所で被爆者の傷や放射線による症状を数多く写した。その後写真家として科学分野などの撮影で活躍。林重男氏たちと「反核・写真運動」の活動にも参加した。74歳で死去。

日本映画社関連

日本映画社

1940年に日本ニュース映画社として設立。翌年、日本映画社に改組。第二次世界大戦中、ニュース映画と多数の国策宣伝映画などを製作した。戦後占領期の1951年に東宝の全額出資によりニュース映画部門を中心に日本映画新社に改組。教育映画部は分社化された。2009年、日本映画新社解散。1945年撮影の「日本ニュース第257号 原子爆弾 広島市の惨害」「学術調査に伴う記録動画フィルム」の権利は日本映画新社に継承され、現在、前者は日本放送協会(NHK)が所有。後者は日本映画社の流れをくむ日映映像に継承され、フィルムは中国放送(RCC)を経て国立映画アーカイブに寄贈された。